2010年 01月 20日
内藤礼展 大掛かりな空虚? |
展覧会が空虚である事と空虚を作品として表現する事は似て非なるものと思う。
人間は空虚な存在である。だからそれが表現の結果として作品内容に現れる事はあるだろうし、そこに共感を呼ぶ事もあるだろう。しかし作品そのものが空虚であるならば、徒労感しか残らない。
内藤礼は日本の現代美術のスターの一人である事は間違いない。だからその展覧会といえば何か期待を抱いて訪れても不思議ではない。
実質的な内藤礼のデビューであった佐賀町エギジビットスペースでのテントの作品は当時感銘を受けたように記憶している。(が、その後のメデアでの情報に攪乱されて今となっては本当に見たのかも記憶があやふやではある)しかしその後の展開で何度も徒労を味わう中で、疑問符が大きくなっていった。これは芸術でも何でもないのではないか?と。
中庭でテープがひらひらと舞ったり、表面張力で張りつめた水面を見せる瓶が意味ありげにおいてあったり、紐上のビーズが垂れ下がっていたり、それだけでは何というものでもなく、美術館という装置や周囲の池泉の舞台があって初めて成立する作品で、作品と言うよりも空間的なディスプレイ操作のように見える。
今回の目玉の光を用いた作品でも、もちろん美しいのだが、光はそれだけでも美しいのだから、イルミネーションを超えるものを望んでしまう。
立派な美術館の展示台の上にコップに入った水をおいて意味深げなタイトルをつける。すると、多くの人は何か深遠な作品ではないかと見入るだろう。
暗がりの中に静かにともる灯り。これが静謐な気分をもたらす。
これらは芸術のフリである。
今回の展示はどうしても、崇高な芸術作品のように見えるもの、というフリに見えてしまう。そのフリは大掛かりな方が成立するのだ。
汗水たらして、手数をかけたものだけが素晴しいというつもりはないが、コンセプトにしても空間美にしても、何かを求めて見に来るのだから、これを知らずとも構わないと思ってしまうのは、展覧会としてはまさに空虚である。
今週一杯。私はお薦めしないが、異論を感じる人は、貴方の眼で確かめて。
人間は空虚な存在である。だからそれが表現の結果として作品内容に現れる事はあるだろうし、そこに共感を呼ぶ事もあるだろう。しかし作品そのものが空虚であるならば、徒労感しか残らない。
内藤礼は日本の現代美術のスターの一人である事は間違いない。だからその展覧会といえば何か期待を抱いて訪れても不思議ではない。
実質的な内藤礼のデビューであった佐賀町エギジビットスペースでのテントの作品は当時感銘を受けたように記憶している。(が、その後のメデアでの情報に攪乱されて今となっては本当に見たのかも記憶があやふやではある)しかしその後の展開で何度も徒労を味わう中で、疑問符が大きくなっていった。これは芸術でも何でもないのではないか?と。
中庭でテープがひらひらと舞ったり、表面張力で張りつめた水面を見せる瓶が意味ありげにおいてあったり、紐上のビーズが垂れ下がっていたり、それだけでは何というものでもなく、美術館という装置や周囲の池泉の舞台があって初めて成立する作品で、作品と言うよりも空間的なディスプレイ操作のように見える。
今回の目玉の光を用いた作品でも、もちろん美しいのだが、光はそれだけでも美しいのだから、イルミネーションを超えるものを望んでしまう。
立派な美術館の展示台の上にコップに入った水をおいて意味深げなタイトルをつける。すると、多くの人は何か深遠な作品ではないかと見入るだろう。
暗がりの中に静かにともる灯り。これが静謐な気分をもたらす。
これらは芸術のフリである。
今回の展示はどうしても、崇高な芸術作品のように見えるもの、というフリに見えてしまう。そのフリは大掛かりな方が成立するのだ。
汗水たらして、手数をかけたものだけが素晴しいというつもりはないが、コンセプトにしても空間美にしても、何かを求めて見に来るのだから、これを知らずとも構わないと思ってしまうのは、展覧会としてはまさに空虚である。
今週一杯。私はお薦めしないが、異論を感じる人は、貴方の眼で確かめて。
by kitaibunshi-ms
| 2010-01-20 01:17
| ギャラリー巡り